2009年02月25日

エルトゥールル号遭難事件の本2冊

今朝のこと、「おとーさん来てー」と次女の声。朝のTVニュースで、和歌山県串本町で、エルトゥールル号の遺品引き上げの話題をやっていました。

エルトゥールル号遭難事件、知っていますか?
pya:日本とトルコ

1890年(明治23年)9月16日 大島村(現在の串本町)の樫野埼灯台に、傷を負いほぼ全裸の見慣れぬ異国の男が助けを求めて転がり込みます。その後もぞくぞくと被災者が現れ、大規模な海難事故があったことが判明します。
事故にあったのはオスマン・トルコ帝国の軍艦エルトゥールル号。親善訪日使節団として日本訪問の帰路台風に遭い、現在の和歌山県串本町沖で座礁・沈没。587名が死亡または行方不明になる大惨事となりました。

漁師が多い大島村の村民はそれが当たり前の用に遭難者を助け、衣服を与え、貧しくとりわけこの年は食料事情が悪かったにもかかわらず、備蓄していた食料や非常用の鶏までも提供して被災者を助けます。
また、知らせを聞いた明治天皇はこの遭難に大いに心を痛め、政府として可能な限りの援助を行うよう指示、明治政府は生還した乗組員69名を海軍の軍艦2隻でトルコまで送り届けました。
こうした大島村民による救助活動や日本政府の尽力がトルコの人々にも伝えられ、遠く離れた日本と日本人に感謝したといわれています。

その後日本は日独伊三国同盟を結び枢軸国として第二次世界大戦に突入、そして敗戦。エルトゥールル号遭難事件のことは忘れられようとしていました。

それから95年後。
中東ではイラン・イラク戦争が勃発。イランの首都テヘランでは、商社や銀行に勤める邦人とその家族約800人が、イラクからの攻撃にさらされようとしていました。
更に、イラクのフセイン大統領が「48時間後イラン上空を飛行禁止地区とし、上空を飛行する航空機は例外なく撃墜する」と宣言。残留していた邦人はいよいよ戦火に巻き込まれようとしていました。

外務省は対応が後手後手に回り、日本航空も安全が保証されなければ救援機を飛ばすことはできない。自衛隊機は海外派遣が不可能な為動けず、国からの救援が絶望的になります。
日本政府は当てにならない。イランの大使館員たちは、テヘランに航空機を乗り入れている国全てに連絡し、残留邦人のために救援機を頼みます。しかし、どこの国も自国民の救出に手一杯でとてもよその国まで面倒見てられない。
万策尽きたと思われたそのとき、トルコから最終便に加え救援機一機を飛ばすのでそれに乗ってくれと連絡があったのです。

果たしてトルコ航空機の救援機は、危険を冒して約束どおり到着。最終便と併せて日本人全員を乗せて飛び立ったのです。

いや、乗せてくれたなんてもんじゃない。

トルコ航空機は日本人を優先してくれたのです。結果、乗り切れなかったトルコ人は陸路でテヘランからイスタンブールまで脱出したそうです。

なぜ、トルコは日本人を助けてくれたのか。

「我々は、あなた方日本人に恩返しをしなくてはなりません。」

トルコの人たちは忘れてなかったのです。自分たちの先祖が受けた恩を。

トルコ航空で増発救援機のパイロットを募ったところ、全員が挙手したそうです。また、危険を冒してトルコ航空機を増援し、自国民より日本人を優先する決定をしたオザル首相に対する非難・批判は一切なかったそうです。

そして日本。
1999年8月にM-7.4という大地震がトルコ北西部を襲います。
この時真っ先に義援金を呼びかけたのが、トルコ航空機で救出された商社マンや銀行マン。さらに日本政府もこの時は対応が早く、各国に先駆けて救助物資の提供や阪神淡路大震災の経験のあるライフライン専門家チームなどを派遣し、トルコの人たちを感激させたそうです。

世代を越えて続く善意と善意の連鎖。この物語をネットで知って、娘に話したところ興味を持ったようなので、市の図書館に行ってみました。
しかし端末で児童向けの本を検索しても見つからず、あったのは、



これ。
このエントリも、この本を読んでから書いてます。当時のオスマン帝国の様子から詳しく書いてあります。詳しすぎて読むの苦労したけど。

当然小学生にはちょっとムリ。
そこで司書の方にお願いして探してもらったところ、一冊みつけてきてくれました。司書の実力を垣間見た気がします。



表紙の絵がこわいと言ってましたが、一生懸命読んでたようです。
posted by kurry at 20:04| Comment(0) | TrackBack(0) |
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