2011年01月20日

恐るべき旅路--火星探査機「のぞみ」のたどった12年

「なぜ宇宙開発が必要なんだろう。莫大な予算を使っても失敗しては結局無駄ではないか」

バブル経済は終わりを迎え、出口の見えない停滞期に入った2003年12月31日、火星周回軌道投入を断念した火星探査機「のぞみ」は、電波停止、沈黙しました。

1998年に打ち上げられ、数々のトラブルに遭遇するもそれらを乗り越えて火星軌道まで到達。しかし最終的に火星周回軌道投入できず、失敗に終わった国産惑星探査機「のぞみ」(MUSES-B)の、あまりにも過酷な旅、そして共に火星を目指した宇宙科学研究所の戦いの物語です。
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2010年10月15日

レシプロこそヒコーキ!〜プロペラ飛行機の興亡


自動車の技術者が書いた航空機の本。そのせいでしょうか「プロペラ飛行機」といってもレシプロエンジン(ピストンエンジン)に限定されてまして、ターボプロップといったタービンエンジンのプロペラ機は語られておりません。続きを読む
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2010年07月24日

飛ばなかった「富嶽」と帰ってきたはやぶさ~はやぶさ 不死身の探査機と宇宙研の物語


探査機「はやぶさ」の物語です。初刷発行が2006年11月30日ですから、まだ「はやぶさ」が帰還する前に出版された本です。ちなみに購入した本は2010年6月25日の第二刷...ずいぶん間が空いてますね。

もちろん「はやぶさ」プロジェクトの本ではありますが、内容の半分以上はISAS=宇宙研の物語、しかも糸川英夫氏とペンシルロケットから「はやぶさ」を運んだM-Vへ至るロケット開発に費やされており、「はやぶさ」の旅については半分もありません。

糸川英夫氏。はやぶさが目指した小惑星に名前を与えられたこの人こそ、日本のロケット開発のパイオニアであり宇宙開発の父でありますが、僕が糸川氏を初めて知ったのは、太平洋戦争時に計画された超大型戦略爆撃機「富嶽」についての本でした。


「富嶽」とは、旧日本軍の陸軍向けの戦闘機その他軍用機を開発・生産していた中島飛行機の社長、中島知久平氏の発案した、米本土への爆撃を目的とした超大型戦略爆撃機(計画のみ)です。
この本、上下巻で出版されてますが、本のタイトルである「富嶽」について語られるのは下巻の途中から。それまでは中島飛行機の生い立ちとエンジン開発の歴史、そしてそれらに携わった人々について語られます。
この中で糸川氏は、中島飛行機設計部の小山悌技師の元で空力設計を担当。究極の軽戦闘機と言われた「97戦」国民的アイドルとなった一式戦「隼」陸軍初の重戦闘機の二式戦「鍾馗」に携わった後で中島飛行機を退社しています。

実はこの本、類似点が多いです。タイトルメイン(はやぶさに富嶽)がなかなか登場しない。内容のほとんどはそれらを開発した組織の物語。
そしてエンジン開発について重点的に述べられている(個体ロケットは「モーター」と呼ぶそうですが...)点。
その計画がなぜ生まれたか。それまでの環境、当時の日本の置かれた状況、そしてかかわった人々について語られ、なぜその計画が必要だったかについて理解した上で初めてメインが登場!という構成になっています。ですので読むのは大変ですが、そういったバックグラウンドを理解した上での物語は、より理解が深まりまた面白く読むことができます。

「中島のサラブレッド」と呼ばれたエンジン「栄」、奇跡のエンジン「誉」の開発に携わった中川良一氏、「栄」「誉」の燃焼・冷却の実験、「富嶽」用エンジン「ハ54」の開発で活躍した戸田康明氏等もロケット開発のキーマンとして登場します。

この本は、僕のように「はやぶさ」で宇宙開発に興味を持った方にはお勧めします。
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2009年03月22日

ドラマ「黒部の太陽」見たけれど-吉村 昭:高熱隧道

フジテレビ開局50周年記念ドラマ特別企画としてフジテレビ系列(テレビ大分を除く)で2009年3月21日・22日(二夜連続)夜9時〜放送。主演は香取慎吾・小林薫。

うーん、
迫力っていうかリアリティっていうか、そういった物が欠けてるなぁ、と。例えば親方の作業服がキレイ過ぎるとか、巻いてる手拭いが新品のように真っ白とか

それでも気になったので原作読んでみようと市の図書館行ってみたら既に3人予約待ち。

吉村昭著、高熱隧道。
学生のときに買った本。見たら何と初版だった。

ドラマでもちょっと出てました。じんごろうさんが足に怪我した工事です。
軍事産業の
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2009年02月25日

エルトゥールル号遭難事件の本2冊

今朝のこと、「おとーさん来てー」と次女の声。朝のTVニュースで、和歌山県串本町で、エルトゥールル号の遺品引き上げの話題をやっていました。

エルトゥールル号遭難事件、知っていますか?
pya:日本とトルコ

1890年(明治23年)9月16日 大島村(現在の串本町)の樫野埼灯台に、傷を負いほぼ全裸の見慣れぬ異国の男が助けを求めて転がり込みます。その後もぞくぞくと被災者が現れ、大規模な海難事故があったことが判明します。
事故にあったのはオスマン・トルコ帝国の軍艦エルトゥールル号。親善訪日使節団として日本訪問の帰路台風に遭い、現在の和歌山県串本町沖で座礁・沈没。587名が死亡または行方不明になる大惨事となりました。

漁師が多い大島村の村民はそれが当たり前の用に遭難者を助け、衣服を与え、貧しくとりわけこの年は食料事情が悪かったにもかかわらず、備蓄していた食料や非常用の鶏までも提供して被災者を助けます。
また、知らせを聞いた明治天皇はこの遭難に大いに心を痛め、政府として可能な限りの援助を行うよう指示、明治政府は生還した乗組員69名を海軍の軍艦2隻でトルコまで送り届けました。
こうした大島村民による救助活動や日本政府の尽力がトルコの人々にも伝えられ、遠く離れた日本と日本人に感謝したといわれています。

その後日本は日独伊三国同盟を結び枢軸国として第二次世界大戦に突入、そして敗戦。エルトゥールル号遭難事件のことは忘れられようとしていました。

それから95年後。
中東ではイラン・イラク戦争が勃発。イランの首都テヘランでは、商社や銀行に勤める邦人とその家族約800人が、イラクからの攻撃にさらされようとしていました。
更に、イラクのフセイン大統領が「48時間後イラン上空を飛行禁止地区とし、上空を飛行する航空機は例外なく撃墜する」と宣言。残留していた邦人はいよいよ戦火に巻き込まれようとしていました。

外務省は対応が後手後手に回り、日本航空も安全が保証されなければ救援機を飛ばすことはできない。自衛隊機は海外派遣が不可能な為動けず、国からの救援が絶望的になります。
日本政府は当てにならない。イランの大使館員たちは、テヘランに航空機を乗り入れている国全てに連絡し、残留邦人のために救援機を頼みます。しかし、どこの国も自国民の救出に手一杯でとてもよその国まで面倒見てられない。
万策尽きたと思われたそのとき、トルコから最終便に加え救援機一機を飛ばすのでそれに乗ってくれと連絡があったのです。

果たしてトルコ航空機の救援機は、危険を冒して約束どおり到着。最終便と併せて日本人全員を乗せて飛び立ったのです。

いや、乗せてくれたなんてもんじゃない。

トルコ航空機は日本人を優先してくれたのです。結果、乗り切れなかったトルコ人は陸路でテヘランからイスタンブールまで脱出したそうです。

なぜ、トルコは日本人を助けてくれたのか。

「我々は、あなた方日本人に恩返しをしなくてはなりません。」

トルコの人たちは忘れてなかったのです。自分たちの先祖が受けた恩を。

トルコ航空で増発救援機のパイロットを募ったところ、全員が挙手したそうです。また、危険を冒してトルコ航空機を増援し、自国民より日本人を優先する決定をしたオザル首相に対する非難・批判は一切なかったそうです。

そして日本。
1999年8月にM-7.4という大地震がトルコ北西部を襲います。
この時真っ先に義援金を呼びかけたのが、トルコ航空機で救出された商社マンや銀行マン。さらに日本政府もこの時は対応が早く、各国に先駆けて救助物資の提供や阪神淡路大震災の経験のあるライフライン専門家チームなどを派遣し、トルコの人たちを感激させたそうです。

世代を越えて続く善意と善意の連鎖。この物語をネットで知って、娘に話したところ興味を持ったようなので、市の図書館に行ってみました。
しかし端末で児童向けの本を検索しても見つからず、あったのは、



これ。
このエントリも、この本を読んでから書いてます。当時のオスマン帝国の様子から詳しく書いてあります。詳しすぎて読むの苦労したけど。

当然小学生にはちょっとムリ。
そこで司書の方にお願いして探してもらったところ、一冊みつけてきてくれました。司書の実力を垣間見た気がします。



表紙の絵がこわいと言ってましたが、一生懸命読んでたようです。
posted by kurry at 20:04| Comment(0) | TrackBack(0) |